slow pace~ゆるやかな歩みと日常の思い

やわらかであれ。穏やかであれ。そう願い続けて生きてきた、私の呟き。

過剰「すぎる」表現に疲れてしまう・・・

すぎる 表現 疲れる

ネットを使い出した数十年前からずっとブラウザのホーム画面はyahooにしてきました。
色々すぐに検索をしたい時に便利だからです。


いつの頃からか、そのトップ記事に来る見出しが「~すぎる〇〇に驚愕」とか「嬉しすぎる〇〇に~」などがやたらと増え「すぎている」ことに気づきました。

「〇〇すぎる」・・・えーと、皆そんなに過剰に張り合ってどうしたんですかね。



「美人すぎる〇〇」
あんまり、そんなに持ち上げるほど美人さんでもないような。
普通に美人さんと思います。
「すぎる」で持ち上げなくても、十分美人さん。
街の中を歩いていたら何人も出会いそうです。


「おいしすぎる〇〇」
・・・いや、もう、その感想は個人による。
普通に「おいしい〇〇発見」ではダメですかね。過剰に盛らないとダメ?


「イケメンすぎる〇〇」
・・・これもまた盛り「すぎる」過剰表現で。
大抵、普通の高身長の若い男の子ってだけで2割増しぐらいでイケメンっぽく評価される傾向があると思ってます。


「きれいすぎる〇〇の景色」
・・・うん。きれいな景色は私も大好物。
ですが「すぎる」と安易な過剰表現は必要ないかなー。



まだまだ挙げれば沢山出てくる「すぎる」過剰の記事の見出したち。
多分、現時点でyahoo以外のSNSやテレビのワイドショー、バラエティー番組をちょっと見ただけでも「~すぎる」表現はあちこち落ちてると思います。

大抵この「~すぎる」記事の中身を見ると裏切られるというか、ガッカリ感で終わることが私は多いです。残念です。


他の記事の誰よりも目を引きたいという気持ちからなのはわかります。
原稿料や広告料を得るためですし。

でも皆がその手法を使ってしまったら逆に埋もれて目立たないという。

なんとなく「キラキラネーム」にちょっと似てる?
目立つと思って付けた子供の名前が、小学校に上がったらクラスに同じ名前が5人くらいいるという。
(実はうちの子の学校にも、この現象がある・・・)



ちなみに私「俺が俺が~」「私が私が~」という我が過剰「すぎる」人が苦手で。

押しが強いというか、自信がたっぷり「すぎる」ほどある人は、近くにいて話を聞いているだけで疲れてしまう。

そういう人って大抵相手の話は聞かない・聞き流す~再び自分の話をマシンガンのように押し付けてくるのですよね。
そして、自分の意見を否定されるとすごく機嫌が悪くなる。


「~すぎる」ネット記事や番組
過剰「すぎる」人達
そういうものから大げさに押し付けられるたびに、私の心はそれを避けるようになっていくのです・・・。



感じ方が過敏な性質なのかもしれないだけで、世の中の他の人たちには何てことない「~すぎる」という表現なのかもしれませんが。

私はぐんにゃりと疲れてしまうのです。
そういう時はそっとタブレット端末やテレビからは距離を置きます。

「~すぎる」見出し記事を参考にしている人もいるのでしょうし、個人の好みは否定しません。
私だけ離脱して記事をスルーすればよいだけ。


ネットSNSテレビ番組・・・。
「~すぎる」だけに限ったことではなく
これらの垂れ流し情報は出来るだけ受け身ではなく、自分の意思で選び取るようにしています。

他から得られる情報には有益なものが多いけれど、情報は流れてくるものを受け身で鵜呑みにするのではなく、自主的に探して選び出すほうが当然「ぴったり」のものが見つけられるので。
「~すぎる」の見出しで誘い込みを図られると、自分の中に取り込みたい情報を探す際にちょっとそれが邪魔してる・・・。


「~すぎる」を安易に多用せずに
色んな言葉や表現を駆使してライターさんは文章を書いてくれたらいいのにな、とか思ったりもするのです。

多分「~すぎる」の多用が苦手なのは私ぐらいなのかもしれない。少数派の思うことを色々呟いてみました。